猛暑日なのに昨日静岡に行ったのはカウンセリング研究会があったからでした。
で、昨日のテーマは「人間のいのち」について考えるでした。
資料が2つあって、ひとつは朝日新聞の記事のコピーで、長野こども病院の院内学級から生まれた詩と学級が
ドラマ化されるという記事。ふたつ目が遺跡発掘現場から見つかった3つのハスの種から2000年前のハスが開花した「
大賀ハス」の話。
最初に個人でテーマについて感想を書いて、身の回りで「人間のいのち」について考えることを書いて、その後6人のグループになってディスカッションをしました。
2つ目の大賀ハスについては曖昧な記憶しかなかったので、長野こども病院の新聞記事についてディスカッションでは主に話をしたんですが、他のメンバーも同様で、ディスカッションはこども病院のことや小児がんの事、メンバーのこどものことになりました。
長野こども病院の院内学級の事と小児がんの神経芽細胞腫を患い「電池が切れるまで」の詩を書いた宮越由貴奈ちゃんのことは、僕は泣いて読んだ記憶しか残ってなかったのですが、新聞記事に詳しく書かれていたのでその当時とは違っていろいろなことを思い出してちょっと感情的になっちゃいました。

『
電池が切れるまで』
皆さんカウンセラーの勉強をしている方なので、自分のこどもが静岡こども病院に救急で入ったとかこども病院に勤めていた、いるとか、親族の方をがんで亡くしたとか、いうようなドラスティックな事実を冷静に話をされたので、とても参考になりました。
ディスカッションの中で参考になった意見は、健康体と思って世の中の流れに流されて生きている人は不平不満でいっぱいのようだけれども、ガン患者で治療をしている人、余命告知をされた人は生きていることで小さなことでも感謝する。感謝することで身の回りの物や身の回りで起きていることを大切だと思えるんじゃないか。だから、健康な人以上に前向きになれるんじゃないか…。という意見でした。
いっしょにカウンセリングを勉強している人に僕の病気の事はカミングアウトしていないので、ちょっと違うんだよなぁと思える意見に「つっこみ」は入れなかったんですが、がん患者の気持ちはがん患者にしかわからないだろうなぁって思いました。
ディスカッションで意見を聞いていると、家族親族でがんで亡くなった人がいない人、大切な人をガンで失った経験がある人で微妙な言い回しですが、感じ方が違うんですよね。それを聞いているガン患者の僕とすると、大切な人をがんで亡くした人の意見も微妙にちょっと違うんだよなぁってずっと思ってました。
たぶん、がん患者でも手術でガンが身体にもうない人と、手術後に再発/転移で治療している人と、僕のように手術不可で抗がん剤治療をしている人と、緩和ケアーに入っている人でも「いのち」についての感じ方や毎日のことがらについての気持ちって違っているように思いました。
「電池切れるまで」の宮越由貴奈ちゃんは11歳で抗がん剤治療をしていて、腎臓摘出手術も繰り返していて、院内学級では詩に夢中になって、たくさん書きつづったということなので、自分の病気についてはすべて受け入れて、治療にも生きることにも、すごく前向きな気持ちでいたんだろうなぁって思いました。
最近お腹が痛いって毎日書いているようじゃいけないなぁなんて思ったしてね…。
このブログは僕の関係者(友人や医療関係者も)に僕の症状を理解してもらう目的もあるので、身体のちょっとした変化も書くようにしているので“弱音をはいている”わかじゃないんですね。
「電池が切れるまで」をご存知じゃない方の為に宮越由貴奈ちゃんの命の詩の全文です。
命はとても大切だ
人間が生きるための電池みたいだ
でも電池はいつか切れる
命もいつかはなくなる
電池はすぐにとりかえられるけど
命はそう簡単にはとりかえられない
何年も何年も
月日がたってやっと
神様から与えられるものだ
命がないと人間生きられない
でも
「命なんていらない。」
と言って
命をむだにする人もいる
まだたくさん命がつかえるのに
そんな人を見ると悲しくなる
命は休むことなく働いているのに
だから 私は命が疲れたと言うまで
せいいっぱい生きよう
画像は2000年の眠りから命を復活させた「大賀ハス」
※同じ内容を別のブログにもアップしています。